クリス
マウンドに立つ小さな投手が、真剣な眼差しで俺を見ていた。
(ああ)
ふっと息をつく。そうだな、お前はそういう奴だ。一生懸命で素直で、真っ直ぐに俺を見るその屈託のない目がただ眩しくて。だから。
そんなお前には俺の全部を知っていて欲しい。と。この心がこんなにも願ってしまったのかもしれない。
とくんとくんと心臓の音が聴こえる。確かな鼓動が身体の真ん中から指の先まで震わすようで、すっと息を吸い込んで目を閉じた。
ここはホームベースの中心。今、自分はここに腰を下ろしている。
(大丈夫だ)
大丈夫。ここは少し前まで俺の場所だった。目を開けて見えた景色。ああ。俺は
(戻ってきたんだ)
クリ沢
『あれ…いい匂いする…クリス先輩のにお…』
擬音を付けるとするなら、こてん、が正しいのだろう。
伸ばしかけた指先を思わず止めて、真顔で沢村の顔を上から覗き込む。
さっきまで顔の半分を上布団に潜らせてふわふわと夢心地な表情で眠そうにしていた沢村は、今はもうくうくうと小さく寝息さえ立てている。
全く。幾つになってもこいつは子供の無邪気さのまま俺を困らせてばかりで本当に参る。
「おい、わかってるのか沢村?」
くうくうとちいさく寝息を立てて眠ってしまった沢村のその前髪をすこしばかり掬って指に絡めると、ふわりと火照った体温が指先に伝わる。
俺の見てないとこでこんなになるまで飲むなよ。
小さな溜息とともに軽く笑んで、せめてもと額に一回、コツンと曲げた指で叩いた。
哲&クリス
別に、根負けしたわけでもないし、あんまりにもしつこくて五月蠅かったから、というわけでも、昨夜御幸と交わした会話が心の何処かにしこりのように残っていたわけでも、ない。
てゆーかボールが投げたいなぁ〜と沢村が言うから、少しだけ付き合ってやるからアップしとけと言ったまで。すると沢村は驚愕の表情で一瞬固まり、慌てふためいた様子で後ろを付いてくる。
お前が投げたいって言うからいいだろうと言っただけなのに、どうしてそんなに驚くのか。
どうやら沢村にとって俺の行動はいつも沢村の想像を超えるものらしい。
……まぁそれは、俺も同じなのだけれど。
早朝のグランド。投球練習場でその日、一球だけ沢村の球を取った。
大きく両腕を頭上に伸ばしたワインドアップのモーション。振りかぶられた左腕、その指先から放たれる白いボール。一瞬の後、スパァンと小気味いいミットの音が耳を打つ。迷いなくまっすぐに飛び込んできた小さな塊をしっかりとミット越しに握り込んだ。受け止めた左手のひらは、じんと痺れて、熱い。
ふうと一息ついて顔を上げると、気持ちよくボールを投げられたと言わんばかりのキラキラした顔でこちらを見つめてくる沢村の視線とぶつかる。
どうですか、すっごい良い球だったでしょう!?
自信に満ち溢れてキラキラ輝く二つの目からついと視線をそらす。口にはしなくても沢村が何を言いたのか顔をみればよくわかる。
本当にわかりやすいヤツだと腹の中で小さく笑って、それから深く深く沢村に聞こえるようにワザと溜息をつく。
「場外ホームランだな」
「なんで………!?」
悲痛な叫びがこだました。
(お前の持ち味は、一体 何だ?)
沢村の球を受けた左手が、まだ少し痺れている。
じんと熱の残った左手を広げて、また握りしめる。二度三度。沢村の投げた球の余韻を確かめるように。
グランドの横道を通り抜けて寮へ戻る道すがら。歩きながら目線を落とし、じっと左手のひらを見つめていたので、声を掛けられるまでそこに結城哲也がいたことに気付けなかった。
「クリス」
名を呼ばれて、足を止める。顔をあげると、いつもどおり引き締まった表情で結城が立っている。
「お前、朝メシまだだろう。食堂のおばちゃんに言ってあるから早く食ってこい。あと、チビの分も言ってある」
結城の言う『チビ』が誰を指すのか、一瞬わからず、何度か瞬きして、ようやく誰のことを指すのか思いつく。なるほど、沢村か。
すまないな、と前置きをして礼を口にする。
「世話をかけたなキャプテン」
口の端を軽く吊り上げると、少しばかり驚いたような顔を結城がする。今度は結城が数度瞬きして、だけどそれも一瞬のことですぐに結城の顔はいつもの凛と引き締まった顔になっていた。気のせいだったのかもしれない。
「なあクリス」
すれ違いざま、結城が呼びかける。どこか嬉しそうな響きを含んで。
「楽しいことでも、見つけたのか?」
その問いかけに、ふ、と足が止まる。振り返ることなく少しの間、問われた言葉の意味を思案して、そう思われるとすればひとつしかないな、と思い至る。
けれど。
「さぁ?」
はぐらかすようなその声音にさえ、楽しげな響きが混じっていたのだろうか。
「そうか」
また歩みを始めたその背に、満足そうな結城の声がかけられた。
