Sample
「うすはなさくら」より抜粋
*** side 丹波
プレートに足をつけ、土を均し、左足を踏み出す。
引いた右肘、振りかざした腕のその先。指先から放たれたボールは脳内にあるイメージと同じ軌道を…ネットの手前で小さな山を描いてすとんと落下した。ぽとんと地面に跳ねたボールが網の溝に収まる。
「ナイスボール」
ぱん、とクリスが手を叩いて誉めそやす。
「あとは、指の慣れだな」
「クリスのお墨付きならすぐにでも実戦で使えそうだ」
「買いかぶりすぎだ。それに、いきなり投げて御幸や宮内が取れなかったら意味ないぞ」
「そんときは、お前が俺の球、捕ってくれるんだろ」
一拍の、間があった。
「…ふ。それはどうかな」
足元に転がっていたボールを立った姿勢のまま腕を伸ばして拾い上げ、クリスはそのまま、器用な指の動きでくるりと回した。
そこから正面のネットめがけて投げるのかと、思った。
(投げないのか)
クリスはボールを握りしめたまま、視線だけをネットに向けている。
(お前だって、投げたいはずだ)
お前の居るべき場所で。
キャッチャーが座るホームベースの後ろで。
お前の肩は―――
*** side御幸
「お前がそんな顔するなんて珍しいな」
知らず、笑みを刻んでいたらしい。
御幸の表情を見つめるクリスの目がふと弛んだ。
「…クリス先輩も、きっとあの球を見たら面白く感じますよ」
きっと、疼く。
ミットをはめる左手の真ん中が、ずくりと欲しがる。
捕まえてみたいのだと、心が逸る。
その心が、捕手ならば。捕まえてみたいと、完璧に捕えてみたいと、思う。
あの球で、打者を打ち取ってみたくなる。
「どうだかな。俺は面食いなんだ」
「知ってます」
即答した御幸にクリスは少しだけ驚いたような顔を見せた。
「俺も、受けるとしたらやっぱり美人が好きですから」
あっけらかんと口にした御幸にクリスが表情を僅かに崩した。
「ふ。キャッチャーらしいこというじゃないか」
「それはクリス先輩もでしょ」
クリスの口角が上がる。
どこか自嘲気味に。それから、黙りこむ。
(気づきましたか?)
察しの良いこの人のことだ。
俺にとって、俺の中で貴方は今も捕手なのだということを、伝えられただろうか。
貴方はどうあっても捕手なんだと。
*** side沢村
クリス先輩は誰よりも一番に俺のこと考えてくれて見ていてくれた。エースになりたいって言うその気持ちに正面から向き合ってくれていた。
(サンキュー春っち)
春っちが大丈夫って言ってくれたから。クリス先輩のこと間違えなくて、すんだ。
息が整った頃合いで顔を上げる。
その視線の先にある壁には、ぶつけられたボールの跡が沢山残っている。重なるようにいくつもの丸い形をかたどるように乾いた土がこびりついている。
闇雲に投げ込んでいた自分がつけたものか、他人がつけたものか、何年も前からのものなのか、最近のものなのか、それはわからない。けれど。
ぐいと汗を拭って、首にかけていたタオルを左手で握り込んだ。
すーっと息を吸い込む。
肺の奥の奥までゆっくりと深呼吸して、閉じていた目を、開ける。
真っ暗な空とフェンスと壁。
ぐっと歯を噛みしめて、真っ直ぐに伸ばした腕の、グラブをはめた右掌をぎゅっと握りしめる。
右足がザリッと土を噛む。振り切る左腕。その手に掴む一枚のタオルが、ビュン、と音を立てて空を切った。
(まだ)
まだ、足らない。
